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ようこそ麻来雅人のブログへ! SM秘小説webと緊縛に関する想いを綴ります。

SM秘小説web
プロフィール

麻来雅人

Author:麻来雅人
まらいまさと:57歳
職業縄師として約25年以上、長いんだか短いんだか…。
11年4月より、オンラインマガジンSM秘小説webの運営責任者に就任しました。こちらでは昭和の緊縛エロスと近況活動をお伝えします。

御用のある方は以下より、☆を@にしてメールしてください。
info☆dualmoon.jp

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縄師の修練と実戦
Category: SMの生い立ち  
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撮影に参加するスタッフは、カメラマンとそのアシスタント、縄師、メイク、そして編集部員が二人にモデルを加えた総勢7名になります。AVの場合とは異なり、男優役などは編集員がこなします。
縄師デビューを果たしたものの、参加できる編集部員は僕も含めて二人しかおらず、スタッフの数が一人足りなくなった状態です。
それまで僕がやっていた秘部を隠す作業(通称:マン隠し)は後輩の編集に一任しましたが、やはり先輩から見たら創意工夫にかけて物足りなさを感じました。しかし縛るという事に集中しなければいけません。

ぎりぎりの厳しさを求めるために、僕が縄師になる以前は時折モデルの腕の筋を痛めていました。筋を痛めると両手が肘より上に上がらなくなってしまいます。神経も痛めるので手を握る事すら出来なくなります。ひどい時は、両手が完全に自由を失い、ドアノブすら掴めなくなってしまうのです。

腕の筋を痛めて病院に行くと、医師は自動的に全治3週間と宣告します。特に治療法はなく、腕の安静を言いつけられます。

SMの撮影を数多くやっているモデルには、腕を痛めているコが多いです。後ろで水平に腕を揃える事ができなくなります。幾度も同じ筋を痛めていると回復すら怪しくなります。まさに身体がボロボロの状態です。神経を痛めてしまったコの場合、常態的に小指の感覚がない、指が曲がらないなどの例にも会いました。

新人の頃、最大の注意を払ったのがその点です。肌に内出血を残しても、筋だけは痛めないようにする。
とは言っても均等な圧力で縛る事さえ、最初はままなりませんでした。
きつく締めれば、見栄えよく肌に食い込みますが、時間が持ちません。緩く縛れば、縄は浮いて落ちてしまいます。幾重に巻いても一本だけきつければ、その一本に負担がかかり、
内出血の赤い筋と鬱血した斑点が肌に浮き上がります。
また慎重に縛っていると、縛り終えた時には既に腕が痺れているとうことも起きます。呼吸が出来なくて、青ざめて倒れたりさせることもあります。
このあたりの加減を覚えるまでに幾人ものモデルにご迷惑をかけました。しかし筋を痛めることだけは極力回避したつもりです。それでも内出血や鬱血の跡を残す事がしばしばでしたが…。
カメラマンが集中して撮影する間も、つぶさにモデルの状態を監視し、必要ならストップをかける事も心がけました。
翌日には違う現場があるモデルには尾を引く怪我をさせず帰すというのが大命題です。

また審美性の観点からの縄のまとめ方と言う大命題もあります。写真の構図を考えた縄尻の飛ばし方などもあります。
きっちり丁寧に縛り上げるとなんだかつまらない緊縛になることもあります。乱れを意図的に加えて、情感を加えることも必要です。
初期の自分の作品を見ると、目を覆いたくなります。バランスも悪く、単調で、まとめ方もヘタ。しかし新米縄師にはその辺りが全然判りませんでした。
構図的な観点は、杉浦カメラマンに叱られながら習得しました。
一日8時間、縛っては解き縛っては解きを幾度も繰り返し、それを月に6~10本続ける実戦の中で習得して行きました。縄師の修練としてはこの上なく良い環境だったでしょう。
後は自分の脚や腹を縛って、縄の感触を自ら確認する事も必要です。よく撮影の合間に自分を縛り、自縛プレイと笑われたものです。

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ただし僕が最初に習得して行った縄は、審美性とモデルへの負担がもっとも少ない縄です。SMプレイに適した縄でも、ビデオ向きの縄でもありません。あくまでスチルに特化した縄でした。

スチル(写真)用の縄というのは、素早く縛る。見えないところははしょる。限られた位置から見た時に美しく見える。モデルへの負担を少なくするといった点に重きを置いた縄です。
吊りは30秒持てばいいし、縛る間はスタッフがモデルを支え補佐してくれます。カメラを構えるまでモデルの身体を誰かが支え、合図とともに離れシャッターが切られます。数枚撮ったら、スタッフが駆け寄りモデルを抱え、縄を解きます。この辺りは濡木先生や有末先生の頃から同じです。少々痛いところがあっても30秒我慢してもらいます。

一方ビデオの縛りは、動きが伴うので堅実に縛らないといけません。結び目はきつく締め緩まないようにします。飾り縄は緩みますから入れられません。しかも30分以上持続できる縄でないと撮影に支障を来します。吊りも30秒という訳にはいきません。少なくても10分から20分は保たないといけません。急いで縛るよりは、その辺りの堅実性が求められます。

さらにプレイとなると吊りなども一人で対応しないと行けません。一人で吊り上げ、一人で降ろす事が必要です。審美性よりは実用的な縛り方が求められます。縛る過程すらプレイの一環になるので、この辺りを楽しむ事も大事です。ショーなどの縄もこれに近いでしょう。

モデルによって身体の固いコもいれば柔らかいコもいます。縛られるのが初めてと言うコもいれば、あちこちの縛りの現場を転々としてきた猛者もいます。当然腕を痛めているコもいます。それを見極めて適宜縛るというのは案外難しいものです。場数を踏んで極めて行くしかありません。しかし濡木先生ほど熟練した人でも失敗はします。当然僕も失敗します。

特に気に入ったモデルの場合、僕は無意識にきつく縛る傾向があるようです。はりきって力んでしまうのでしょう。谷口和希などには、あう度に縄がきつくなると、泣いて訴えられました。平沢里菜子や他のモデルにも言われたことがあります。初対面だと遠慮がちだったのが、どんどん増長するのかもしれません。戒めないといけない点です。
 


新人縄師誕生
Category: SMの生い立ち  
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三和出版刊「上級者のための緊縛術」より。縛りの様子。

杉浦カメラマンのアシスタントを長年務めた橋本成喜氏が独立しカメラマンとして活躍し始めたのは、
アップル通信という一般向けエロ本が軌道に乗った頃です。
彼の独立後、濡木先生の推薦で杉浦カメラマンのアシスタントになったのが、不二秋夫氏です。
全体に目配せしながら軽いフットワークで機敏に動く彼はライトの配置こそ橋本成喜氏に及ばないものの、素晴らしいアシストぶりを発揮しましたが、一年にも満たず杉浦則夫カメラマンの元を去ります。

その前後に、緊縛美研究会から不二企画が立ち上がったと思います。
濡木先生を中核とし、不二秋夫カメラマンと、モデルとして幾度もお世話になった縛りに造詣の深い春原悠理嬢が屋台骨の組織でした。
濡木先生主導で行う、純然たる緊縛を探求する緊美研の会合の様子をビデオに納め、販売をはじめたのです。
商業ベースでビデオを制作販売するアートビデオやシネマジックとは趣向を異にする第三セクター的存在です。
濡木痴夢男先生を尊敬する方々に支持され、好調に業績を伸ばして行きました。

昭和60年代の頃、浅田編集長と杉浦則夫氏が向き合う喫茶店に呼び出されました。
SMマニア・秘小説の縛りのすべてを僕にやらせたい、やってくれるか?と訊ねられたのです。
君にはその実力があるし、杉浦則夫カメラマンがフォローして行くと言う事でした。
晴天の霹靂とはこのことでしょうか?

最低でも月6本の仕事をお願いしていた縄師の濡木・有末両先生を切るという事、それが何を意味するのか…。
常日頃、濡木先生と杉浦カメラマンは、お互いを避けるように振る舞っていました。時には相手に対しての苛立ちを見せる事もしばしばありました。
互いに対する不満も、時折うかがってはいましたが、そこまで深刻な事態になっているとは知りませんでした。
苦い顔をし言葉少ない浅田編集長と、熱心に縄師への転向を薦める杉浦カメラマンの様子から、何があったのかおぼろげに推測はできました。

六年ほどのカラーグラビアの撮影の際、モデルの転倒を防ぐのと縛りのアシストのため、必ず僕はモデルの傍らに立っていました。
その縛りの工程をつぶさに観察し、緩んでいるところがあれば縄師に伝え、結び目を作る際は手を差し伸べて手伝いました。
吊りの際は、モデルの負担を少なくするために、縛る間からライトのセッテイングとカメラの露出値が決まるまで、モデルの支持台となりました。
そして局部の隠しと責めを担当し、シャッターが切られる最中はモデルを周囲から観察し、カメラマンの気がついていないアングルを見つけるとそれを知らせることに専念していました。
苦痛の多いSM撮影だからこそ、休憩時間はモデルをエンジョイさせ、この現場はとても楽しいと思わせるのが僕の役目でもありました。
(モデルのモチベーションを高める事が、結果として二穴バイブなどに通じました)

しかし縛りとなると、モノクロ撮影での簡単な縛りと、プライベートでの縛りしか経験したことはありません。
日々の撮影の中で、緊縛の審美性を見極める目は育っていましたが、縄師を目指してはいなかったので、縛りを極める心構えなどこれっぽっちも持ちあわせてはいませんでした。

色々な不安を抱えながらも、首を縦に振るしかありませんでした。
新人縄師誕生の瞬間でした。
SMマニア・SM秘小説は濡木痴夢男有末剛両先生と決別し、新たな道を歩み始めることになったのです。
 


闇から陽の元へ
Category: SMの生い立ち  
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SMマニア・SM秘小説は両誌共々4万部に迫る勢いで快進撃を続けます。編集部にも人員は増え、松本氏は秘小説・マニア編集部から独立し、投稿を主体としたライトなSM雑誌「SMマニア倶楽部」(後のマニア倶楽部)を創刊します。この頃、杉浦則夫カメラマンの囲い込みが行われ、同業他誌から手を引かせ、三和出版の専属カメラマン的位置づけに収まります。逆に他の緊縛カメラマンが三和からは排他されました。この辺りは撮影班主任の僕が窺い知る事ない、浅田編集長・松本編集長と杉浦則夫カメラマンの政治的な取り交わしがありました。

ライト指向のSMマニア倶楽部が求める写真のタッチは、バンドアの三点ライトで闇から女体を切り出す手法ではなく、よりマイルドで自然光に近い表現でした。「SMマニア倶楽部」の出現により、杉浦則夫カメラマンのライティングは、それまでの固いものから、ボックスライトを使用した柔らかいものに変化して行ったのです。SMマニア・秘小説のライティングも、マニア倶楽部以前と以降ではかなり変化しています。

写真学校などを経ず我流で独特のタッチを編み出した杉浦カメラマンのバンドア3点ライトは、まともに写真技術を学んで来た者には邪道とも言えるライティングだったのですが、SM撮影に於いてはまさに正鵠を射た在り方でした。長年カメラアシスタントを続けた橋本成喜カメラマンがそれを熟成させ、終盤ではまさに神業のように闇から女体を切り出していたのですが、彼の独立とともに、そのライティングに乱れが生じていったのも事実です。

ボックスライトは光を散らし、肌の陰影を柔らかくしますが、一方で背景まで明るく照らし出してしまう欠点がありました。闇に蠢く女体を明るい日差しの元に引き出す様は、まさに時代を象徴していたのかもしれません。SMマニア倶楽部は、狭いマニアを対象にしたSMマニア・秘小説を凌駕する部数に育って行き、同時にSMを普遍化させていったのも事実です。商業誌である以上、より多い部数を求める行為が、こうして闇の文化を白日の元に曝け出し、闇の中であったからこそ輝いていたものを滅っしていってしまったのかしれません。

その証しに、三和出版に就業当時は、SMマニア・秘小説の編集部員などとは決して口外できませんでした。どんな雑誌を出している編集部ですか?と尋ねられると「マニアという雑誌です」と応えました。すると誰しもが平凡社から出版されていた「アニマ」と勝手に勘違いしてくれたものです。
ところが平成にもなると、縄師ですと応えれば、たちまち女性からも男性からも歓迎され、まるでパンダのような人気が出る始末です。

一方他誌の業績は下がり、SMクラブが休刊、続いてSMファン、SMセレクトなどの競合もその歴史を閉じて行きます。SM風俗と文化を扱うSMスナイパー、SM投稿誌の「マニア倶楽部」そして小説とグラビア・古典的イラストのSMマニア・秘小説、この三系統の雑誌が趨勢を締める時代になって行きました。
 


三和出版に転身し、緊縛撮影に挑む
Category: SMの生い立ち  
昭和57年春、一浪一留で大学を卒業し建築設計事務所に入ります。終電間際まで仕事に従事する日々ではSM小説の執筆活動もできず、撮影の助手も無理でした。
机に齧りつき線を引く日々の中で、思っていた設計活動と実際の設計現場の大きなギャップに失望を覚えはじめます。そんな折に、松本氏から連絡がありました。SMファンの編集部を中核に、幾人かの編集員と営業などが結託し新会社を作るという話でした。司書房傘下で、ほぼ休眠状態にあった三和出版を使い新たな出発を果たすので、そこに来ないかという話でした。

5年間付き合った千鶴との仲も、後半の2年間他に男を作っていたという事実を知り、信頼関係の修復もままならず破局へと進んでいました。
新たな生活の場を得たいと思っていた僕には、とても魅力的な話でした。そして一年務めた設計事務所に辞表を出すと、三和出版に正社員として迎えられたのです。

編集局長に浅田氏、営業と経理に石川・古川氏、医療マニア誌を得意とする後藤氏、マニア誌全般に強い松本氏、他数名とともに10名に満たない三和出版がスタートしました。設計事務所退社の残務整理もあり、少し遅れて彼らに合流しました。配属はもちろんSMマニア・SM秘小説編集部です。松本氏と撮影を数本こなして要領を得ると、SM撮影班の主任として動き始めます。SMマニア・秘小説のカラーの撮影だけでも月6本、それに縄とカメラを担いで行くモノクロ撮影やSMクラブの取材など月に計10本以上の撮影をこなしはじめます。

当時モデルクラブなどほぼ皆無の中、カメラマンの手持ちのモデルを紹介してもらったり、取材の折にSMクラブ嬢を口説いたりしながら、このカラー撮影をコーディネートして行かなくてはなりません。SMセレクト・SMクラブ・SMコレクター・SMスナイパー・SMファン(他の編集が後継)などがひしめく狭いカテゴリーに新規雑誌が二冊殴り込みをかけるのです。小説やイラストの選定は浅田編集長と松本氏が行い、撮影業務全般を僕が担うという体制を見ても、はっきりとした成果を上げて行かなければ、これらの雑誌に太刀打ちできる訳がありません。それだけ信頼され抜擢されたのですから、その重責を跳ね返し他誌を凌駕する原稿を作り出さなくてはなりません。

メインのカメラマン杉浦則夫氏はSMセレクトでも撮影を行っており、縄師の濡木痴夢男・有末剛両先生もセレクトや他誌と掛け持ちで縛っていました。そしてSMの出来るモデルも数が限られていたので、同じカメラマン・縄師でSMセレクトとSMマニアの同月号に同じモデルが掲載されることは頻繁に起こりました。そこで差異を出せるとしたら編集の力だけです。

モデルが嫌がるNGを如何にして了承させ、他誌が出来ない激しい責めを果たすか。他誌とのグラビアの差別化はそれしかありませんでした。当時バイブを膣に挿入する事はどこの編集部でも行っていました。しかしアナルと放尿となると皆無でした。アナルにバイブを入れさせてくれと正面から頼んでも首を縦に振るモデルなんていません。そこを懸命に口説きアナルと膣にバイブを二本挿しにする了解を取り付けるのです。もちろん痛みがあればモデルは拒みます。アナルに異物挿入などモデルも経験した事のない時代です。セレクトと同じギャラなのにそこまで了承させるにはそれなりに苦労しました。しかもモデルには嫌悪感を抱かれたり酷い仕打ちと思われずに済ませないと、次の撮影ができません。同じモデルを二度三度と撮るのは当たり前だし、悪い評判がたてばモデル同士の口コミで瞬く間に伝播し、SM秘小説・マニアの撮影が敬遠されてしまいます。

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※三和出版刊「封印された緊縛史[昭和編]」より。当時は無修正で掲載された二穴バイブ。男優は筆者。

排尿に関しては、手先が器用だったので、ゴム管を死角に這わせ画面の外から浣腸器で水を送り、あたかもモデルが失禁しているように見せました。まだ誰も考案していない時で、水芸と命名し、モデルらもクスクス笑いながら応じてくれました。

同じカメラマンが同じ縄師の縛ったモデルを撮る。そこに他誌ではなし得ない淫らで衝撃的な責めを加える。二本のバイブが深々と刺さり、さらに排尿を拒む彼女らに失禁すらさせているのです。そんなグラビアは他誌に衝撃を走らせました。SMのグラビアは、セックスから遠ざけて禁欲的にあらねばならないという風潮を敢えて破り、縛ったモデルとの本番まで撮りました。同じモデルが他誌のグラビア現場に行っても、アナルに異物挿入させないし、放尿も本番も撮らせません。ライバル誌には決して真似が出来ない淫猥なカットを作り出す事に成功したのです。

SMセレクトに濡木先生が執筆なされる撮影同行記というコーナーがありました。いつからかそのページは僕の観察記で埋まるようになりました。僕がいかにしてそれらの責めに持ち込むかが緊縛の大家の目からも新鮮であったようです。

このグラビアの差別化が功を奏し、質の良い小説の力と相まって、SMマニアとSM秘小説は他誌からリードを奪います。順調に成績を伸ばし始めた三和出版は、一般エロ雑誌も発刊し始めます。その単体撮影の仕切りも任されていたので、SMがNGのモデルたちを口説き落とし、SMグラビアに登場させることも行い、責めとモデルの質の両面で独走状態に入りました。

ある時、平凡パンチの巻頭を飾る単体モデルを口説き落としてSMマニア・秘小説のグラビアに登場させた事があります。ところがそのモデルは短気で落ち着きがなく、縛りにすら抵抗する有様に、濡木先生が怒り始めてしまいました。「こんなモデルでSMなんて撮れない!」あわや撮影中断かと思われた時です。杉浦氏まで怒り始めました。モデルも不貞腐れ三者が決裂するという最悪の事態です。なんとか取りなして撮影を進めました。ふだんは仲の悪い濡木先生と杉浦氏が、この時だけは手を携えてモデルと僕を糾弾しました。

その数カ月後、同じモデルを現場に連れて行くと濡木先生も杉浦氏も呆れた顔をしました。そこでモデルに尻を出させると、竹の棒で打擲しました。加減など行わず幾度も打ち据えると尻は血がにじみむごたらしく腫れ上がりました。しかし彼女はその責めにうっとりとした表情を見せたのです。巨匠二人を見返したくて、実は懸命に調教していました。決してマゾ性のないモデルを顔だけ美人だから連れてくる訳ではないと立証したかったのです。当然二人とも大層驚いていました。そのモデルとは勝美よし子です。二度目の撮影は、そんなわけで最初から尻を腫らしての撮影となったのでした。

追記:「SM探偵団/蘇るSMグラビアアイドル」に勝美よし子の詳細な記事が記載されています。
 


SMファンとアートビデオ
Category: SMの生い立ち  
浅田氏が率いる司書房SMファンにSM小説発表の場を移し、手元に残る資料では、以下の作品を発表しました。
いずれも僕が大学時代に執筆したものです。

・「縄に悶える美少女千鶴の凄春」相模芥(別冊SMファン昭和55年7月号)プレイレポート
・「穢れなき悪戯」加悦澄夫(別冊SMファン昭和55年6月号)
・「痴少女の秘密」芳香奈美(別冊SMファン55年9月号)
・「お仕置き学園」芳香奈美(別冊SMファン昭和55年10月号)
・「お仕置学園 マゾッ子の性講座」芳香奈美(別冊SMファン55年11月号)
・「欲情する少女」芳香奈美(別冊SMファン昭和55年12月号)
・「羞恥と快楽の狭間」赤瀬譲二(別冊SMファン55年11月号)プレイレポート
・「続お仕置学園 マゾッ子の性講座」芳香奈美(別冊SMファン55年12月号?)
・「少女を襲う肉の凶器」加悦澄夫(小説SMファン昭和56年1月号)
・「満員電車の痴少女」加悦澄夫(小説SMファン春季号昭和56年5月)
・「狙われた妖精・前編」芳香奈美(別冊SMファン昭和56年1月号)
・「狙われた妖精・後編」芳香奈美(別冊SMファン昭和56年2月号)
・「蜜色の好奇心」芳香奈美(別冊SMファン昭和56年4月号)
・「女子高生の熱い滴」吉川ナミえ(小説SMファン夏季号:昭和56年8月発行)
・「密戯の罠」芳香奈美(小説SMファン昭和**年8月号)
・「おませな痴戯」芳香奈美(別冊SMファン昭和56年11月号)
・「姫売り学院」芳香奈美(別冊SMファン昭和**年**月号)
・「凄春挽歌」芳香奈巳(SM秘小説昭和57年7月号)

中でも「縄に悶える美少女千鶴の凄春」は、M女千鶴とのプレイ手記でした。
千鶴は僕をSに目覚めさせた真性M女で、処女だった16歳から交際し22歳で別れるまでの6年間の伴侶的存在でした。
さらに千鶴の目を盗んでの女子大一年生の河野亜梨子とのプレイ手記が「羞恥と快楽の狭間」でした。
これは大学の学友たちを巻き込んでの輪姦的な続編があるはずですが、手元に資料はありませんでした。
振り返れば、鬼畜のような男です(苦笑)

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※別冊SMファン昭和55年7月号より 千鶴とのプレイレポート

精力的に執筆する傍ら、松本氏のお誘いでグラビアの撮影の手伝いにも参加しました。
初めて参加したのは、濡木痴夢男先生と杉浦則夫氏の現場です。
責め役をやりましたが、無口なモデルがとても魅力的でした。
初対面で胸を鷲掴みにしたり、股間に手を這わせる演技を行ったのですが、僅かに表情が揺らぐ様子にいたく興奮したものでした。
鬼が二人いると編集員たちから怖れられた現場でしたが、気難しい両巨匠に認められその後撮影に招聘されることが多くなりました。

さらに当時SMビデオ制作に乗り出していたアートビデオの峰一也氏もSMファンの巻頭グラビアの一部を撮影していましたが、彼の誘いから、原宿にあった氏のスタジオで初期作品の何本かに責め役男優として登板しました。昭和55~56年頃のことです。マンボウ資料館で画撮を確認した「狂い泣く肉奴隷」と、あらすじで確認した「淫らな悪魔」と思われます。もう一本出演したかもしれません…。

この頃のカメラマンは、杉浦則夫氏を除き、モデルを何人抱えているかが資質の一つと判断されていました。
モデルクラブすらなく、フリーのモデルが闊歩していた頃です。
カメラマン同士が会えば、モデルの連絡先交換が始まるのが常でした。
峰一也氏は原宿で精力的に女の子を口説き、美人どころを揃えてカメラマンとして活躍していましたが、
70年代後半から普及がはじまったビデオを睨み、
「これからはビデオの時代だよ」
そう意気込んでいたのを覚えています。
機械好きな峰氏は、スチールカメラをビデオカメラに持ちかえて、アートビデオという牙城を大きくして行くのでした。

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※別冊SMファン昭和55年10月号巻頭グラビア「餌食」より 初めて参加したグラビア撮影