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ようこそ麻来雅人のブログへ! SM秘小説webと緊縛に関する想いを綴ります。

SM秘小説web
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麻来雅人

Author:麻来雅人
まらいまさと:57歳
職業縄師として約25年以上、長いんだか短いんだか…。
11年4月より、オンラインマガジンSM秘小説webの運営責任者に就任しました。こちらでは昭和の緊縛エロスと近況活動をお伝えします。

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三和出版に転身し、緊縛撮影に挑む
Category: SMの生い立ち  
昭和57年春、一浪一留で大学を卒業し建築設計事務所に入ります。終電間際まで仕事に従事する日々ではSM小説の執筆活動もできず、撮影の助手も無理でした。
机に齧りつき線を引く日々の中で、思っていた設計活動と実際の設計現場の大きなギャップに失望を覚えはじめます。そんな折に、松本氏から連絡がありました。SMファンの編集部を中核に、幾人かの編集員と営業などが結託し新会社を作るという話でした。司書房傘下で、ほぼ休眠状態にあった三和出版を使い新たな出発を果たすので、そこに来ないかという話でした。

5年間付き合った千鶴との仲も、後半の2年間他に男を作っていたという事実を知り、信頼関係の修復もままならず破局へと進んでいました。
新たな生活の場を得たいと思っていた僕には、とても魅力的な話でした。そして一年務めた設計事務所に辞表を出すと、三和出版に正社員として迎えられたのです。

編集局長に浅田氏、営業と経理に石川・古川氏、医療マニア誌を得意とする後藤氏、マニア誌全般に強い松本氏、他数名とともに10名に満たない三和出版がスタートしました。設計事務所退社の残務整理もあり、少し遅れて彼らに合流しました。配属はもちろんSMマニア・SM秘小説編集部です。松本氏と撮影を数本こなして要領を得ると、SM撮影班の主任として動き始めます。SMマニア・秘小説のカラーの撮影だけでも月6本、それに縄とカメラを担いで行くモノクロ撮影やSMクラブの取材など月に計10本以上の撮影をこなしはじめます。

当時モデルクラブなどほぼ皆無の中、カメラマンの手持ちのモデルを紹介してもらったり、取材の折にSMクラブ嬢を口説いたりしながら、このカラー撮影をコーディネートして行かなくてはなりません。SMセレクト・SMクラブ・SMコレクター・SMスナイパー・SMファン(他の編集が後継)などがひしめく狭いカテゴリーに新規雑誌が二冊殴り込みをかけるのです。小説やイラストの選定は浅田編集長と松本氏が行い、撮影業務全般を僕が担うという体制を見ても、はっきりとした成果を上げて行かなければ、これらの雑誌に太刀打ちできる訳がありません。それだけ信頼され抜擢されたのですから、その重責を跳ね返し他誌を凌駕する原稿を作り出さなくてはなりません。

メインのカメラマン杉浦則夫氏はSMセレクトでも撮影を行っており、縄師の濡木痴夢男・有末剛両先生もセレクトや他誌と掛け持ちで縛っていました。そしてSMの出来るモデルも数が限られていたので、同じカメラマン・縄師でSMセレクトとSMマニアの同月号に同じモデルが掲載されることは頻繁に起こりました。そこで差異を出せるとしたら編集の力だけです。

モデルが嫌がるNGを如何にして了承させ、他誌が出来ない激しい責めを果たすか。他誌とのグラビアの差別化はそれしかありませんでした。当時バイブを膣に挿入する事はどこの編集部でも行っていました。しかしアナルと放尿となると皆無でした。アナルにバイブを入れさせてくれと正面から頼んでも首を縦に振るモデルなんていません。そこを懸命に口説きアナルと膣にバイブを二本挿しにする了解を取り付けるのです。もちろん痛みがあればモデルは拒みます。アナルに異物挿入などモデルも経験した事のない時代です。セレクトと同じギャラなのにそこまで了承させるにはそれなりに苦労しました。しかもモデルには嫌悪感を抱かれたり酷い仕打ちと思われずに済ませないと、次の撮影ができません。同じモデルを二度三度と撮るのは当たり前だし、悪い評判がたてばモデル同士の口コミで瞬く間に伝播し、SM秘小説・マニアの撮影が敬遠されてしまいます。

niketuvibe.jpg
※三和出版刊「封印された緊縛史[昭和編]」より。当時は無修正で掲載された二穴バイブ。男優は筆者。

排尿に関しては、手先が器用だったので、ゴム管を死角に這わせ画面の外から浣腸器で水を送り、あたかもモデルが失禁しているように見せました。まだ誰も考案していない時で、水芸と命名し、モデルらもクスクス笑いながら応じてくれました。

同じカメラマンが同じ縄師の縛ったモデルを撮る。そこに他誌ではなし得ない淫らで衝撃的な責めを加える。二本のバイブが深々と刺さり、さらに排尿を拒む彼女らに失禁すらさせているのです。そんなグラビアは他誌に衝撃を走らせました。SMのグラビアは、セックスから遠ざけて禁欲的にあらねばならないという風潮を敢えて破り、縛ったモデルとの本番まで撮りました。同じモデルが他誌のグラビア現場に行っても、アナルに異物挿入させないし、放尿も本番も撮らせません。ライバル誌には決して真似が出来ない淫猥なカットを作り出す事に成功したのです。

SMセレクトに濡木先生が執筆なされる撮影同行記というコーナーがありました。いつからかそのページは僕の観察記で埋まるようになりました。僕がいかにしてそれらの責めに持ち込むかが緊縛の大家の目からも新鮮であったようです。

このグラビアの差別化が功を奏し、質の良い小説の力と相まって、SMマニアとSM秘小説は他誌からリードを奪います。順調に成績を伸ばし始めた三和出版は、一般エロ雑誌も発刊し始めます。その単体撮影の仕切りも任されていたので、SMがNGのモデルたちを口説き落とし、SMグラビアに登場させることも行い、責めとモデルの質の両面で独走状態に入りました。

ある時、平凡パンチの巻頭を飾る単体モデルを口説き落としてSMマニア・秘小説のグラビアに登場させた事があります。ところがそのモデルは短気で落ち着きがなく、縛りにすら抵抗する有様に、濡木先生が怒り始めてしまいました。「こんなモデルでSMなんて撮れない!」あわや撮影中断かと思われた時です。杉浦氏まで怒り始めました。モデルも不貞腐れ三者が決裂するという最悪の事態です。なんとか取りなして撮影を進めました。ふだんは仲の悪い濡木先生と杉浦氏が、この時だけは手を携えてモデルと僕を糾弾しました。

その数カ月後、同じモデルを現場に連れて行くと濡木先生も杉浦氏も呆れた顔をしました。そこでモデルに尻を出させると、竹の棒で打擲しました。加減など行わず幾度も打ち据えると尻は血がにじみむごたらしく腫れ上がりました。しかし彼女はその責めにうっとりとした表情を見せたのです。巨匠二人を見返したくて、実は懸命に調教していました。決してマゾ性のないモデルを顔だけ美人だから連れてくる訳ではないと立証したかったのです。当然二人とも大層驚いていました。そのモデルとは勝美よし子です。二度目の撮影は、そんなわけで最初から尻を腫らしての撮影となったのでした。

追記:「SM探偵団/蘇るSMグラビアアイドル」に勝美よし子の詳細な記事が記載されています。