SM小説デビューを果たした昭和53年は、ピンクレディーの「UFO」、矢沢永吉の「時間よ止まれ」が大ヒットした年です。キャンディーズが後楽園球場で引退コンサートを行い、宮城県沖地震が起こり、「口裂け女」が流行しました。そしてサザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」で衝撃的なデビューを果たした年でもありました。
当時SMセレクトは仙田氏が編集長、通称ネコさん(後に仙田氏の奥さんになられる)が編集員をしていらっしゃいました。初掲載された直後、女子高生のM女千鶴同伴で水道橋の編集部を訪ねたのですが、ネコさんは、執筆者が女子高生相手にSMプレイをしている大学生ということに驚かれていました。しかしそれ以上に同伴した千鶴にいたく興味を示し、彼女に根掘り葉掘りプレイの内容やSM観を尋ねていたのが印象に残っています。
当時、官能小説においては、女性の一人称形式である「あたし~なんです」でエロを綴る宇能鴻一郎先生が一世を風靡してました。僕はその文体を模して、SM小説を書いていました。責められる女性の観点から描くSM小説は極めて珍しかったのが、採用された要因だったのでしょう。読み返してみると、よくぞこんな駄文が採用されたと恥ずかしくなります。
手元に残る資料では以下の作品を「加悦澄夫」名で、SMセレクトに執筆していました。
・淫らな復習(SMセレクト78年6月号)
・堕天使候補生(小説SMセレクト78年12月号)
・堕天使の凄春(小説SMセレクト79年6月号)
・奈美の赤い滴(小説SMセレクト79年10月号)
・幼心芽生え(小説SMセレクト79年12月号)
・みず色淫花(SMセレクト80年3月号)
・みず色の淫花(SMセレクト80年4月号)
・花散る私刑(小説SMセレクト80年6月号)
大学生だったので、その原稿料は並みのバイトを遥かに凌ぐ大金でした。
ところがある日、原稿をうっかりと他社に送付すると云う大ポカをしてしまいます。
間違えて送った先は、司書房の「SMファン」編集部でした。
千鶴に送付を託したのですが、彼女はSMセレクトとSMファンを混同していたのです。
SMファンの編集部から連絡があるまで、そのミスには気がつきませんでした。
当然、ミスをした千鶴にはきついお仕置きをしました。
すぐさま司書房の編集員の松本氏とお会いしました。
当時のSMファンの編集長は浅田氏で、松本氏は生粋のSMマニアとして敏腕を振るっていました。
原稿はSMファンで掲載されることになり、以後レギュラーでSMファンで執筆することになりました。
この浅田・松本両氏との出会いが、その後の運命を決定づけるのでした。
※SMセレクト掲載の処女作を改稿し続話も含めて掲載した昭和56年刊「小説SMファン夏季号」