昭和60年台に撮影された原稿です。縄師は、
有末剛先生だと思われます。
昭和50年代までの緊縛写真は、SEX色をタブーとして、描かれていました。
当時書店売りのエロ本においては、男女の腰が裸で接することはNGとされていました。結合を想起させる体位の場合、男の腰にはひどい時は黒いパンツ状の消しが施されていたのです。今では考えられない厳しい規制です。そのため、絡みの写真は、男女の腰の間に空隙をこしらえて撮っていたものです。つまり結合はされていないと弁明するための空隙でした。
SM雑誌の場合、緊縛写真をウリにするので、この規制を避けるためもあり、SEX的な描写は敬遠されていました。また緊縛にセックスを持ち込むのは邪道というのが、当時のSM観の主流でもありました。
しかし反面で、「SM誌は変態が買う高価な雑誌であり、青少年の育成には悪影響を与えない」というような考えが規制側にあることに気がついた頃でもありました。昭和60年代になると、叱られれば自重もしますが、SM雑誌はどこまで過激な表現をとっても叱られる事がなく、描写はかなり過激なものになっていきました。ヘアーさえ見せていなければ、割れ目を箸で隠してもお咎めなしの状態だったのです。見せていけないヘアーであれば、剃ってしまえばいいとモデルと云うモデルに剃毛を施していました。
ましてや肛門は性器ではなく、単なる排泄器官。そこに何が刺さっていようと性的描写ではないという風潮さえ出来上がりつつあり、実際お咎めはありませんでした。
番人の目をかいくぐるようにして、より過激な描写を競い合い、時にはやりすぎて指導や注意を受け、あまりにもフライングした時は「発禁処分」を受けながら、SM雑誌を含めたエロ本は、切磋琢磨していったのです。その中でもお咎めを受けにくいSM誌が、一般向けエロ本では考えられない過激な描写となっていったわけです。
伝統的SMに固執するSM誌の中にあってSMマニア・SM秘小説は、あえてセックス色のあるグラビアに挑戦して行きました。それは好色な僕が撮影担当の編集子であったせいもあるかもしれません。しかしセックスを交えることにより、限られた変態のためのSMがより広がりを見せたのも事実でした。