_
SMマニア・SM秘小説は両誌共々4万部に迫る勢いで快進撃を続けます。編集部にも人員は増え、松本氏は秘小説・マニア編集部から独立し、投稿を主体としたライトなSM雑誌「SMマニア倶楽部」(後のマニア倶楽部)を創刊します。この頃、
杉浦則夫カメラマンの囲い込みが行われ、同業他誌から手を引かせ、三和出版の専属カメラマン的位置づけに収まります。逆に他の緊縛カメラマンが三和からは排他されました。この辺りは撮影班主任の僕が窺い知る事ない、浅田編集長・松本編集長と杉浦則夫カメラマンの政治的な取り交わしがありました。
ライト指向のSMマニア倶楽部が求める写真のタッチは、
バンドアの三点ライトで闇から女体を切り出す手法ではなく、よりマイルドで自然光に近い表現でした。「SMマニア倶楽部」の出現により、杉浦則夫カメラマンのライティングは、それまでの固いものから、
ボックスライトを使用した柔らかいものに変化して行ったのです。SMマニア・秘小説のライティングも、マニア倶楽部以前と以降ではかなり変化しています。
写真学校などを経ず我流で独特のタッチを編み出した杉浦カメラマンのバンドア3点ライトは、まともに写真技術を学んで来た者には邪道とも言えるライティングだったのですが、SM撮影に於いてはまさに正鵠を射た在り方でした。長年カメラアシスタントを続けた
橋本成喜カメラマンがそれを熟成させ、終盤ではまさに神業のように闇から女体を切り出していたのですが、彼の独立とともに、そのライティングに乱れが生じていったのも事実です。
ボックスライトは光を散らし、肌の陰影を柔らかくしますが、一方で背景まで明るく照らし出してしまう欠点がありました。闇に蠢く女体を明るい日差しの元に引き出す様は、まさに時代を象徴していたのかもしれません。SMマニア倶楽部は、狭いマニアを対象にしたSMマニア・秘小説を凌駕する部数に育って行き、同時にSMを普遍化させていったのも事実です。商業誌である以上、より多い部数を求める行為が、こうして闇の文化を白日の元に曝け出し、闇の中であったからこそ輝いていたものを滅っしていってしまったのかしれません。
その証しに、三和出版に就業当時は、SMマニア・秘小説の編集部員などとは決して口外できませんでした。どんな雑誌を出している編集部ですか?と尋ねられると「マニアという雑誌です」と応えました。すると誰しもが平凡社から出版されていた「アニマ」と勝手に勘違いしてくれたものです。
ところが平成にもなると、縄師ですと応えれば、たちまち女性からも男性からも歓迎され、まるでパンダのような人気が出る始末です。
一方他誌の業績は下がり、SMクラブが休刊、続いてSMファン、SMセレクトなどの競合もその歴史を閉じて行きます。SM風俗と文化を扱うSMスナイパー、SM投稿誌の「マニア倶楽部」そして小説とグラビア・古典的イラストのSMマニア・秘小説、この三系統の雑誌が趨勢を締める時代になって行きました。